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「始まり」としてのモーセ

−アレクサンドリアのフィロン『モーセの生涯』を中心に−

著者:津田 華枝

価格(税込)¥4,950
サイズA4
ページ数139 ページ
発行年月2015年 8月
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商品の説明

本論文は、アレクサンドリアのユダヤ人聖書解釈者、哲学者、神秘主義者フィロン(BCE. 20頃〜CE. 50頃)が著した『モーセの生涯』を中心に、彼のモーセ理解の一端を明らかにしようと試みるものである。フィロンの時代の所謂ヘレニズム的ユダヤ教に於いて、モーセ及び彼がもたらしたと考えられた律法は、揺るぎ無い権威を保持するものであった。フィロンによるとされる30篇超の現存論考の内、約28篇が律法の註解に充てられていることからも、それは窺い知れる。フィロンは、ギリシアの諸哲学、とりわけ中期プラトン主義やストア派、新ピュタゴラス派の各伝統、そして僅かにアリストテレス的な要素を自身の聖書解釈に援用し議論を展開したために、哲学者とも位置づけられる。しかしながら彼の主眼はあくまで「モーセに従って哲学すること」に存したのであり、フィロンは第一に聖書解釈者であったと考えられる。そしてその著作は、同一の巨大な法に繰り返し挑み解釈を行う試みと捉えられるように思われるのである。
フィロンに於ける律法解釈をこのような理解の元で彼の中枢課題と位置づけることが許されるならば、その至上の法の授与者−即ちモーセに関する事柄も、法に先立ち明らかにされねばならないだろう。この、ユダヤ人の律法授与者モーセについてフィロンが体系的に論じたほぼ唯一の著作と考えられるのが、本論文が考察の対象とする『モーセの生涯』である。この論考は、フィロン自身の巻頭言などから、モーセ律法の内面的理解へと至るための導入的な性格を持つ一集成とも見做され得る作品である。従って、フィロンの律法解釈を探求しようとする者にとっては、その挑戦への序論的役割を担っているとも考えられる。それ故に、フィロンの律法註解に立ち入る前に先ずは『モーセの生涯』を考察し、フィロンが解するモーセその人を知ろうと努めフィロン研究の基礎を固めること、それが本論文の目的となる。
『モーセの生涯』は2巻から成る書物であるが、その第2巻冒頭で、フィロンはモーセに関する次のような理解を提示する。即ち、モーセは自身が示した二つの能力、「王たること」、「哲学者たること」のみならず、他の三つ、第一に「立法」、第二に「大祭司職」、第三に「預言の力」に於いても仕事を成し、神の摂理によって、王(哲学者−王)、立法者、大祭司、預言者となり、各々の職務の最高位を担う存在であることが明かされるのである。これら四つの能力の内、フィロンが主に第1巻で取り上げるのは王としての資質であり、残る三つの資質は、第2巻の中でそれぞれ詳しく論じられる。フィロンによれば、これら四つの能力は一人の人物の内に兼ね備えられ、美しく調和がとれており統一されているのである。
このような形でフィロンによって提示されるモーセの四つの職務各々の分析を通し、本論文では、各職務に認められる思想的背景を浮き彫りにしながらその特性を考察すると共に、総体としての四職の把握を試みた。
先ず、序論に於いて、フィロン著作全体の分類と『モーセの生涯』がそれらの内何処に位置づけられるべきであるかを検討し、先行研究に見られる諸議論の分析を通して、『モーセの生涯』に対する本論文の視点を以下のように定めた。(1) 律法註解群に属するものではないが、それと関連する立場にある独立論考と見做す。(2) 一般的な意味での護教的著作ではないが、ヘレニズム世界の価値観に於いても理想とされる姿(哲学者・立法者等)を用いてモーセを描き出そうとする点で、緩やかな護教的意図を持つ作品と捉える。(3) 哲学的素養はあるが、モーセの哲学に関しては初学者に近い「アレクサンドリア人」(ユダヤ人 / 非ユダヤ人)を、想定読者と推定する。
次いで本論に入り、第1章では、哲学者的王であるモーセ像にどのような特質が認められるかを探った。その結果、主に次のような点を特性として抽出した。(1) モーセは、「言葉と行為」の調和による哲学的信条の日常的実践によって、また、観想的生と実践的生双方への志向の内に、哲学的生を体現していた。 (2) モーセの召命記事に於いて、神が存在することは知られるが、神の本質は知られ得ないことが示唆される。 (3) モーセは神と人の間に立ち、自らが悟ったことを、それを模倣したいと願う者たちのために、彼自身の生として公にした。モーセの示した型を我々が象ろうとすることは、即ち徳の完全なる形相を得ようとすることに繋がるのである。
続く第2章では、立法者としてのモーセを考察することにより、フィロンが律法の卓越性を記すと共に、それが自然の法の完全なる模写であるという可能性を示唆する点を確認した。本来記され得ない筈の自然の法を、律法(=モーセ五書)として、我々のこの世界に公にしたことが、モーセ立法の比類のなさと考えられ、またその法は、創造の記述(法の神的起源)から始まり、「生ける法」たる族長の生涯‐モーセの生涯を通り、モーセを介して授けられた十戒と個々の法、全てを包含するものとして、総体的に理解される必要性が存するのである。
次に、第3章に於いて、モーセの大祭司としての職務に焦点をあてた。そして、(1) 祭司職に相応しい「敬虔」の故にモーセはその職務に与ったが、フィロンは、出自ではなく徳性を祭司職に必要なものと見做していたと考えられること、また、モーセは「言葉と行為を通じて」その徳を結実させたこと。 (2) モーセはシナイ山に於いて神的教示を受け、知性によってしか捉えられ得ない範型と感覚的世界の質料を仲介し、幕屋を建設するに至ったこと。(3) 大祭司は祭服の内に全世界を担い、世界を弁護者として神に仕えること、また、自身が世界に相応しくあらねばならないこと。 (4)モーセが、人々のために執り成しの祈りを献げるイスラエルにとっての真の仲介者であり続けたことなどを、職務の特性として提出した。 そして、原型的祭司としてモーセは神と人の間に立ち、時には知性によってしか捉えられないものを感覚的世界に示し、時には民のために執り成しの祈りを献げるという双方向的な仲介を成したということに、最大の強調点を認めた。
最後に第4章の中で考察行ったのが、預言者としてのモーセである。(1) モーセの預言者職は、勘考によっては捉えられないものを、神の摂理によって見出せるよう「必然的に」得られたものであり、四職の内、総体的且つ先行的な性質を持つものと思われる。 (2) モーセの預言は、フィロンによれば三つの類型に分けられるが、それらの内、議論から除外される第一類型の預言、「解釈者」を介する預言と想定されるものは、根源的で人間の言葉では表され得ない先行する預言に、知性が時に能動的な解釈をもって応答することにより、神との一種の協働が果たされた結果、もたらされたものではないかと考えられる。(3) モーセの最後の預言としてフィロンが伝える「モーセの歌」には、先立つ神への感謝と共に、民への愛が等しく込められ、しかも両者は混ざり合っている。過去・現在・未来という三つの時を射程に入れるモーセの最後の詠唱は、常に世に現存し続け、地と天の間で、モーセが善意を傾けた民を照らし続けるものとなったのではないか。モーセの仲介の最も純粋な最後の形は、その死の時にこそ存在するのではないか、と考えられる。
以上の考察を通し、フィロンによるモーセは、王・立法者・大祭司・預言者の何れの職務に於いても、不可視なる範型を魂(もしくは知性)によって把握し、それを感覚的世界に提示する、或いは、人間には推し量り得ない神的意思を、思惟(もしくは知性)によって解釈し、それを質料的世界に現出させる、仲介者的存在であったということを、指摘することが出来る。
最も根源的で総合的な預言者の職務から王の職務に至る四職の流れ(但し、各職務ははっきりと階層的に捉えられるものでは決してなく、それぞれに重なる)の中で、フィロンによるモーセは、最後に「王としてのモーセ」の姿に於いて、「生ける法」として、現実のこの世界に実践的に存在した。そのことが、わけても重要ではないかと考えられるのである。本論文の強調点は、モーセの上昇の偉大さよりも、寧ろ、フィロンの『モーセの生涯』に見られる、下降の比類のなさにある。恐らく、極限られた「秘儀参与者」にのみ伝えられる筈であったものを、モーセは書かれた法として(書かれざるものと共に)、公にした。本来は記され得ない筈のものが完全な形で著され、感覚的な我々の世界の上で、あらゆる人々にも開かれ得るものとなった。そしてそこには、決して概念上のものではない、彼自身がこの世界で<生きた>「生涯」が、法として含まれているのである。



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