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ポストコロニアル的視座より見た遠藤周作文学の研究―村松剛・辻邦生との比較において明らかにされた、異文化受容と対決の諸相―



著者:神谷 光信

価格(税込)¥4,950
サイズA5
ページ数501 ページ
発行年月2017年 12月
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商品の説明

本研究は、これまで主にキリスト教作家という独自性に焦点を当てて研究されてきた遠藤周作を、ポストコロニアル的視座から再文脈化し、再解釈しようとするものである。換言すれば、それは、遠藤研究の暗黙の前提そのものを問い直し、慣れ親しんだ思考の枠組みから意識的に距離をとり、遠藤の文学世界に新しい照明を投げかける試みである。
 フランス留学から帰国した遠藤が小説家として再出発したとき、留学前に書かれた評論「神々と神と」(1947年)で示された比較文化論的主題に加えて、近代西洋植民地主義に組み込まれた有色人差別が大きな主題であったことを、「アフリカの體臭」(1954年)や「アデンまで」(1954年)の考察を通して明らかにした。そこでは弾劾されるものとして、有色人に対する白人の優越意識が描き出されていた。軍事力で日本を降伏させた西洋人の絶対的優位は、当時は否定し難い「事実」として存在していた。白人男性医師でキリスト信徒のシュヴァイツァーが日本でも賞讃されていた。シュヴァイツァーは、劣等な有色人を救済する崇高な西洋人を象徴する人物だった。そのような時代であったがゆえに、「アデンまで」の日本人男性主人公は、フランス人女性との恋愛に挫折するしかないし、「月光のドミナ」(1957年)において、白人女性は日本人男性の手が届かぬ、神々しい美の化身として表象されていたのである。
 ところが、1960年代に入り、東京オリンピックに象徴される目覚ましい経済成長を日本が遂げ、敗戦の衝撃から日本人が自信を恢復し始めると、遠藤の作品のなかで、徐々に白人はその圧倒的な優位性を喪失していく。「変な外人たち」(1966年)では、西洋はすでに過去の栄光を誇る老残の白人男性の姿をとって描かれ、美しい中年白人女性は、崇敬の対象ではなく、共感すべき対等な存在として描かれる。さらに1970年代になると、物質的に豊かな生活を享受するようになった日本人は、白人世界に対して尊大になっていく。「ワルシャワの日本人」(1979年)で描かれたように、慎ましい生活を余儀なくされている共産圏の白人女性を、日本人男性は傲慢にも完全に見下している。
 このように、西洋の白人世界に対する権力関係は、徐々に変容していったのである。それは1950年代から70年代にかけて書かれた「ポーラン・シリーズ」で、北アフリカ出身の黒人が、白人に対して卑屈から尊大に変貌していく過程が描かれていたことと表裏をなしている。かつて自分の出身国の方が、より近代化=西洋化していると学生寮で誇示し合い、白人学生たちの「友情」を取り合おうとした黒人と日本人は、1970年代の東京で再会して、互いが到達した社会的地位を示しあう。
 一方で遠藤は、「有色の帝国」(小熊英二)たる近代日本のコロニアルメンタリティが持つ暴力性や外国人差別についても、1950年代に、「地なり」(1958年)や「夏の光」(1958年)などで描き出していた。日本による中国支配すなわち「五族協和」の美名の下の占領の実態を、「夏の光」は赤裸々に描き出している。これは『海と毒薬』(1958年)と同様、日本人の暗部を直視しようとする作品であり、遠藤が近代西洋植民地主義を、西洋だけの問題ではなく、近代日本の問題としても捉えていたことを証拠立てている。「夏の光」は、占領がもたらす人間性の歪みを描いた物語として捉えることができる。
 シリアスな政治的主題を大衆小説で扱うという遠藤の戦略的方法は、これまで批評家や研究者たちに充分には認識されてこなかった。『一、二、三!』(1964年)と『どっこいショ』(1967年)は、ヴェトナム戦争の時代を背景に、アジア太平洋戦争の記憶と戦後日本の安全保障を主題とした問題作であった。前者では、皇室と帝国日本の東南アジア侵攻との結びつきが語られ、後者では「下請けの帝国」(酒井直樹)となった日本について、かつて徴兵忌避を企てた父親と防衛大学校進学を考える息子を描くことで問題提起した作品であった。戦争を経験した世代と、戦後生まれの世代が登場する点が共通している。1960年代は、日本は高度経済成長の時代であり、物質的な豊かさを日本人が実感し始めた時代である。戦争を知らない若い世代には、政治意識を先鋭化させる傾向もあり、戦争体験世代との認識の相違が浮き彫りにされてきた時期であった。
 1970年代に入り、中東地域の植民国家イスラエルに遠藤が注目して『死海のほとり』(1973年)という問題作を書いた事実は注目すべきことであった。これは、近代西洋植民地主義に対する怒りをモチーフとして出発した遠藤が、現代の植民地主義に目を向けたという意味で、必然的な展開
であったと考えることができる。第三次中東戦争後のエルサレムを舞台として描かれたこの作品では、イスラエルのパレスチナ占領が描かれている。ナチスによるユダヤ人差別が前景化されているが、「アラブのユダヤ人」(高橋和夫)たるパレスチナ人へのイスラエルの抑圧が随所に描き込まれていた。「自衛のため」という名目で武装を許された入植者が支配する空間での、貧しいパレスチナ人たち。彼らはイエスの時代の貧しいパレスチナの人々と重ねあわされている。ここでは、西欧対非西洋という支配/被支配関係が、シオニズム国家とアラブ世界という構図に転位している。
 『死海のほとり』が、中東国際政治に不案内な日本人読者に受け入れられなかったことは、遠藤を落胆させた。当時の日本人の多くにとって、アラブ世界は政治的にも文化的にも、アフリカ同様「遠隔地」であり、パレスチナ人という他者を想像することは困難だったのである。遠藤は歴史小説に方向転換するが、これは作家という職業上、多分に戦略的なものであったと捉えることができる。彼の問題意識は全てが地球規模となった現代にあったが、日本人の歴史好きを意識して、日本の歴史の中に国際化された現代を見出す方向へと向かったのである。『侍』(1980年)はそのような作品であり、17世紀の日本と世界を舞台としながら、スペイン人に軍事的に占領されたインディオたちの同化と抵抗を通して、近代西洋植民地主義の実態を生々しく描き出している。それは1970年代半ばまで続いたポルトガルのアフリカ植民地支配を意識させるものであり、また、今日まで継続しているイスラエルのパレスチナ支配と重なり合うものであった。歴史小説を書くことで、植民地主義に苦しめられてきたラテンアメリカやアフリカ、パレスチナの人々を、尊厳ある人間として日本人が想像することができるような方法を選んだのである。
 もう一つの戦略は、大衆小説でシリアスな主題を追求する方法である。『砂の城』(1976年)はそのような作品であった。ここではパレスチナ解放闘争が、島原の乱と結び付けて描かれており、「弱者」の絶望的な抵抗としてハイジャックが扱われている。
 遠藤にも日本がアメリカ合衆国の準植民地状態に置かれているという認識があったことは、素人劇団「樹座」の演目『蝶々夫人』(1984年)での、政治的イロニーに満ちた演出からうかがえる。死の三年前に上梓された長編『深い河』(1993年)は、英国の植民地支配から第二次世界大戦後に独立した南アジアの大国インドを舞台としている。1984年10月が物語の現在である。ヒンズー教、イスラム教、シーク教などさまざまな宗教が共存する現代インドを舞台としたのは、カトリック教会の正統教義に長年違和感を抱いていた遠藤が、ジョン・ヒックの宗教多元主義に、理論的な共感を当時抱いていたこととおそらく無関係ではない。教会から異端児扱いされる日本人修道士を通して、キリスト教はこの作品のなかで相対化されている。
 『死海のほとり』はイスラエルのパレスチナ占領という現在進行中の暴力を物語の背景としていたが、『深い河』は、インディラ・ガンディー首相暗殺という暴力をクライマックスに持ってきたことで、ポストコロニアル時代のあからさまな暴力を、読者の眼前に突きつけている。首相暗殺はインドの国内事件ではあるが、小説中でこの事件が果たす衝撃は、宗教的対立の暴力性のみならず、1947年に独立を果たすまでの英国の長い植民地支配と抵抗の歴史や、独立を果たした後も続くインド国民の苦難の足取りを読者に強く想起させるものである。
 このように、本研究で、日本のカトリック作家遠藤周作の文学が、1954年の「アフリカの體臭」から1993年の『深い河』まで、近代植民地主義とそこに組み込まれた暴力への関心に貫かれていたことを確認することができた。とりわけ、彼が提出した「同伴者イエス」像が、イスラエルに占領されたパレスチナの人々という背景のなかで、アウシュビッツの記憶とともに描き出されたことは、きわめて意義深いものがある。
 遠藤は、「日本のグレアム・グリーン」と欧米で呼ばれてきた。しかし、グリーンは西洋で生まれた白人であり、遠藤はアジアで生まれた有色人であった。そこには、無視することのできない立場の違いが厳然と存在している。遠藤にあってグリーンにないのは、非西洋人の立場から西洋を相対化する視線である。それゆえ、遠藤をグリーンと安易に重ね合わせるべきではない。遠藤を「日本のグリーン」と呼ぶことは、要するに、彼を白人化し、西洋世界に取り込む巧妙な操作だったと見ることが可能であり、それは、問題提起力に満ちた彼の文学の根底にあった、作家自身の非白人性の自覚を見失わせてしまうものであったとも言いうるのである。


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